即今 当処 此の命
没頭することができないというのは、 私にとってかなりの苦痛だった。
販売員として働いてからというもの、 ひとつのことに没頭するということがなくなってしまったのである 。
いや、なくなったというより、禁止されているというのに近い。
入り口の方に身体を向けながら品出しをして、 お客に気づいたら愛想よく挨拶、 掃除をしながら商品アピールの口上を並べる。
レジでは会計をしつつ、 お客が並んでいないときはレジ周りでできること( 埃をはたいたり、 値下がりする商品のシールを貼り替えたりすることなど)をする。
一度に色々なことを同時に、 或いはすぐに注意を切り替えて素早くテキパキと行わなければなら ない。
そしてそれは、私が思っていた以上に苦手なことだった。
やろうとするとできないか、遅々としてどの作業も進まない。
最も困るのは、異常なスピードで疲れていくことだった。
ある日のこと、なるべくひとつのことに集中しすぎないように、 周りに気を配りながら、開店準備、レジ、品出し、 モップがけをした。
特に変なお客も、面倒な問い合わせもなかったのにも関わらず、 4時間弱で「もう一歩も動けません」レベルで疲労困憊した。
残りの4時間は、重い体を無理矢理動かして、 ロボットみたいにカクカクと言われたことを無心に遂行して乗り切 ったことを覚えている。
この疲れを取るのに、 めったにない2連休をほぼ寝て過ごしてしまった。
毎朝毎朝充電30%くらいからスタートする。
最近では疲れがどんどん溜まっているのだろう、 頭の回転が鈍くなり、知力も衰えていることが自分でもわかる。
少し長い話になると最後まで聞けない、初歩的なミスは増える。
挙句の果てには小学1年生レベルの簡単な漢字を書き間違えたり、 読み間違えたり、計算を間違えたり、なんてことが頻発した。
それに比例して上司に注意される数も増えていく。
仕事が楽しくなければ休日こそ、とは思う。
けれど溜まった疲労を取るために昼近くまで眠り、 起きたらブランチ、洗濯を取り込み、畳み、
愛犬の散歩、夕食の支度、夕食、入浴、就寝、 というのが休日のルーティーンになってしまっている。
心の元気をチャージするための能動的趣味やお出かけも、 体力が減ってしまうのであまりやる気がおきない。
何もかも億劫だ。
この一言に尽きる。
この状況を打破するためには、とうしたらいいのだろう。
色々なことを同時にやることでストレスが溜まるなら、 1つのことに集中すればいい。
没頭できるほどの情熱とそれを注ぐエネルギーがわかないのなら、 "今"に集中すること、"今"を感じること。
休日のルーティーンの中でこれを行うのに最適なのは愛犬の散歩だ ろう。
外出にもなるし、適度な運動にもなる。
一石三鳥だ。
いつものことながら散歩が待ち遠しくてならなかった我が愛犬は、 リードを装着したとたん、勢い良く走りだした。
それでもそのスピードは私が軽くジョギングをすればついていける ものだった。
それもそうか、彼はもう、人間でいうとおじいちゃんになる。
幼い頃は彼はかなりやんちゃで、散歩のたび風のように疾走した。
私は彼に引っ張られていつも「待って待って」 と言いながら必死で猛ダッシュしたのを覚えている。
彼よりも私の方が息が切れるのが早くて、 彼のスピードが少しだけ落ちたのをいいことに、「 絶対に歩くんだ」という断固とした意思でもって歩くと、 彼は振り向いて残念そうな顔をした後、 仕方なさそうに歩いていた。
壮年にもなると彼は飼い主への気づかいを覚えたらしく、 私のペースに合わせる様子を見せ、1匹と1人は並走していた。
走る度に私の眼鏡が鼻の上で僅かにはねて視界が揺れたが、 彼と共に走るのは、1人で、 或いは人間と走るときよりも楽しかった。
風を切る音、彼の息遣い、彼の足音。
その時確かに、私は1匹の獣だった。
このいつもの散歩コースは、 そんな物思いにふけりながらのんびりとてくてく1匹と1人が歩く のにはうってつけで、田畑や植物に囲まれ、川も流れている。
既に稲刈りから2ヶ月ほど経った田は、水がすっかりなくなって、 雑草が生えていた。
根本は黄緑色で、 葉先にいくに連れて徐々に黄色へと変わっていき、 見事なグラデーションを描いている。
小春日和の日差しに照らされて、 なんだか少し眩しく見えて目を細めた。
土手へ歩いていくと、 ドロボーやネコジャラシなどが生い茂っている。
ああ、懐かしい。
今考えると、子どもというのは身近なもの( それもたいしたものでないもの) で遊ぶ天才だったのかもしれない。
大人になった今、私は時間に追われて仕事をする日々の繰り返し。
いつも歩いているはずの散歩道の雑草や、 季節の変化にも気づかないほど疎くなっている。
余裕がないのだろうな。
周りを見る余裕も、愉しむ余裕も。
ふと川の方に目をやると、水鳥が水面をのんびりと泳いでいた。
多分親子だろう。
仲良く1列になって泳いでいる。
川は静かに凪いでいて、 鳥たちが泳いだ後には半円の波紋が生まれては消えた。
今は一瞬で過去になっていく。
そしてもう二度と戻ることはできない。
日々の生活に忙殺されて、容易くそれを忘れている。
この今の生活を続けていくとして、 もし明日事故にでもあっていきなり死んだときに「 我が人生悔いなし」と高らかに言い切ることができるのか。
答えはとっくにわかりきっている。
だからいつも焦燥感と虚無感が同時に襲ってきて、 その割に何も成し遂げられないから余計に焦れていくのだ。
仕事もプライベートも充実していない私。
そんな私の人生に、そんな私に、一体何の価値があるというのか。
不意に我が愛犬が、 アスファルトに入った僅かなひびに足を引っ掛け躓いた。
それでも彼は何食わぬ顔でのんびりと歩いている。
老いた彼は、目も悪いし、耳も遠くなった。
ふらふらしてまっすぐ歩くこともできなくなった。
それでもただのんびりと散歩をしている。
ただ生きている。
ずっと前からそうだった。
ただ息をして歩いて、生きて此処に存在している。
胸の底から温かい気持ちがこみ上げてきた。
命として存在しているという事実が、とても尊く、 愛おしく思えた。
そのとき、私は温かい膜に包まれた。
生き物の体温のような、温さで眠ってしまいそうな。
雑草や水鳥、土の下の生き物、空の鳥などの、 数多の生き物や植物たち。
そして目の前にいる愛犬が
「生きているよ。今ここに生きているよ」と、 囁いているようだった。
できないことも、ダメなところも、 思い通りにならないこともある。
それをしかと受け止めよ。
お前は存在するだけで、それだけで充分価値がある。
「だからお前もそのまま、此処にいていいんだよ」
そうか、これでいいのか。
このままでいいのか。
不意に視界が歪んで涙が頬を伝った。
私にもある、この命の温かさ。
地平線に近い空の部分が、紫色に変わってきている。
もうじき空は藍色に染まって、夜の帳が下りる。
今はきっと、少し休む時だ。
ゆっくり休んで、英気を養う。
そしてまた朝が来たら、顔を上げて前を向き、 1歩ずつ歩いていけばいい。
自分のペースで、自分の道を。